再建された平成の活人剣
   東京藝術大学 宮田亮平学長が制作

(1)活人剣再建される

 可睡齋の正面の階段を登って行くと、左手に青銅の彫像が見えてくる。山門をくぐり、更に左手に回るとその全体を目にすることが出来る。これが新しく東京藝術大学の宮田亮平学長の手によって制作された平成の活人剣(かつにんけん)である。
 活人剣は、山門と輪蔵の間、辺りの空気を払うように屹立している。全高は約6m、下部の基壇は、花崗岩でできた六角形の円錐状の石組みで構成されている。中段からは、彫金が施された円状の台座が据えられ、そこから空に向かって剣が真っすぐ伸びている。
 ここは可睡齋でも、参拝者が必ず目にする場所である。活人剣の正面に立つと、谷を隔てた向こう側には杉の大木が林立し、濃い緑色が広がっている。これを背景に青銅色の活人剣が、静かに存在感を放っている。
 元の活人剣は、可睡齋の奥之院近くにある。秋葉総本殿横の石の階段を登って行くと「六の字穴」の前に出る。ここから奥の方を見ると円柱形の石造りの台座と、更にその奥には副碑が見える。これが明治33年(1900年)、当時の可睡齋主日置黙仙によって建立された活人剣の史跡である。
今は石作りの基壇しか残っていないが、当時は明治の代表的な彫刻家、高村光雲が制作した剣が立っており、全高は20尺と記録されている。しかし、太平洋戦争の敗色濃くなった昭和19年、金属の部分は戦時の要請で供出されてしまった。そして戦後70年が経ち、石碑の存在は、人々の記憶からも消えようとしていたのである。
しかし、遺された基壇の円柱碑、奥の副碑には、建立の趣意書、漢詩などが石に刻まれている。これを読んでいくと、建立にかけた先人達の真摯な思いが伝わってくる。

(2)史跡活人剣の意味

ではまず、円柱碑の碑文を見てみよう。そこには曹洞宗の修証義の作者として名高い大内青巒の撰文が刻まれている。これを読むと、当時国中を震撼させた大事件の顛末と、この国難を救った陸軍軍医総監、後に順天堂の第3代堂主となる佐藤進の快挙が分かってくる。
「日清戦争の講和交渉の最中、一人の暴漢が清国全権大臣・李鴻章を狙撃し負傷させた。明治天皇は大変心配し、陸軍軍医総監の佐藤進を往診させた。やがて李鴻章の傷は癒え、ある日、佐藤の腰に付けている剣を見て、『医事にどうして剣が必要か。』と問うた。これに対し、『人を殺める剣ではなく、活人剣である。日夜、百病と戦い、必ずこれに勝つ。』と答えた。これを聞いた李鴻章は、なるほどと共感し、しばらく深く感動の思いに浸った。」(要点意訳)
 活人剣とは、殺人刀(せつにんとう)と共に禅問答の公案にある言葉である。李の問いに咄嗟に答えた佐藤の言葉が、一挙に二人の距離を縮めたのであろう。
 また、奥の副碑を見てみよう。そこには、李鴻章が詠んだ佐藤進を讃える七言律詩が刻まれている。李は詩の中で、こんな言葉を使って佐藤への感謝と信頼の気持ちを伝えている。
 「年とった私が日本に来たのは、戦争を終結し、平和を実現するためである。私の思いは、かつて北宋の宰相で外交に尽くした富弼と同じである。私を銃撃した暴漢は、始皇帝を狙った荊軻に比べれば取るに足りない。希なる才能のある君は、国の危機をも救った。素晴らしい君の手腕で私は快癒した。しばらく待って欲しい、このことを清国皇帝に伝え、褒章を贈るよう上奏するから。」(要点意訳)
 この詩の中で李は、中国で名医への最大の賛辞とされる「妙手回春」という言葉を使っている。
 更に同じ副碑では、日置齋主が建立の意義をこう伝えている。
 「李鴻章の傷を癒し、李の難問に活人剣と答え感心させたことは神力が移ったという他はなく、長く後世に伝えるべきことである。佐藤進、その妻靜子夫人、令息昇君らが、法華経八巻の一文字一文字を石に書き写して碑の下に埋めたことは、日清戦争で亡くなった両国の兵士たちを敵味方なく平等に供養するものである。」(要点意訳)
 佐藤進は、日置齋主の一代前の可睡齋主西有穆山のもとで禅を学んでいた。日置齋主は、可睡齋との浅からぬ縁を感じ、境内への建立に尽力されたのであろう。

(3)建立にまつわる話

 元の活人剣の制作には、高村光雲はじめ、建設斡旋として河瀬秀治、図案及び製造監督に前田香雪、剣の鋳工に藤井利延、刻字の石工に宮亀年など、当時の一流の人物が力を出し合った。この中で、活人剣の意匠について、色々な議論があったと前田香雪が『夜行汽車』という文章の中で残している。読んでみると、苦心の跡が偲ばれて興味深い。
 「大阪などより活人剣の図案が寄せられたが、不動尊や大山石尊の前に建つような図案で適当なものがなかった。佐藤進氏が実際に使っている佩刀が一番と思うが、洋剣の形状と装飾にこだわると自然に洋式となってしまい、日本人の記念物としてはふさわしくない。また、可睡齋という仏の地の荘厳さにも適当ではない。」
 「剣柄には活人剣の三字を篆文にて記し、露盤は秋葉総本殿の徽章なる羽扇を蓮台式に凝らして造ることとした。柱下二段の円形なる台座は、車輪形に組むこととする。これは、活人剣の問答が文武の本質に関わることで、文武は両輪の如し、と言う言葉にも適っている。」(要点意訳)

(4)平成の活人剣

 では、平成の活人剣には、宮田学長はどんな思いで制作にあたられたのであろうか。去る9月26日の竣工式典後の講演の中で、宮田学長はこんな話をご披露された。
 「台座には、牡丹の花とイルカを配している。牡丹は、可睡齋の寺の花であり、季節にはたくさんの美しい花が咲き誇る。また、牡丹は中国が原産の花であり、多くの中国の人に愛されている花でもある。花の周りを泳ぐイルカは、海を隔てた日本と中国、そこを行き来する交流の懸け橋でもある。」
 イルカは、宮田学長が作品の中で良く使われるモチーフである。佐渡ご出身の学長は、このイルカに対して特別な思いがあるとも聞いている。
 また、剣の意匠には、最後までご苦労されたようである。しかし、いよいよとなって、明治神宮にある明治天皇の秘蔵の指揮剣をご覧になる機会があったそうである。講演会の会場でその実際の剣の拓本を見せていただいたが、通常写真などでは鞘に納められた剣を見ることはあっても、刀身を見ることはまずはない。それも明治天皇が実際に使われたという指揮剣である。これをご覧になって、剣のイメージが閃いたとのことである。
 国家の命運が掛かる李の治療に、明治天皇は勅命で佐藤に往診を命じたが、剣からは、その息づかいが伝わってくるようである。
宮田学長は、文部科学省「文化審議会」の会長はじめ、文化芸術に関する数々の要職についておられる方である。活人剣の竣工式典が終了して数日、その学長が2020年東京オリンピックのエンブレム選考委員会の座長に就任された、とのニュースが全国に流された。宮田学長に期待する声が如何に大きいか、改めて知る機会となった。
宮田学長自らは、金属工芸界の第一人者として、東京駅の「銀の鈴」など、数々の芸術作品を世に送り出されておられる。今回の作品は、その作品の中でも大作に属するものという。この作品が完成したことに改めて感謝申し上げると共に、可睡齋という身近な場所で鑑賞できることを心底嬉しく思う。

(5)活人剣をめぐるご縁

 この竣工式の講演の中で、宮田学長は何回か「ご縁」ということを強調された。そもそも活人剣の再建が出来たのは、ご縁としか言いようのない人の出会いがあった。
 建設資金のこととは別に、山門横の一等地を建設地にあてていただいた佐瀬道淳可睡齋主、医史学の第一人者である酒井シヅ順天堂大学名誉教授、書家として中国にお詳しい大谷青嵐静岡県書道連盟副会長、近代中国史がご専門の岡本隆司京都府立大学准教授、元静岡県教育長で「まちそだての会」会長の遠藤亮平氏他、それぞれ多く人が結ばれるご縁があった。
 そのご縁という点では、宮田学長こそ、当のご本人であったかもしれない。
宮田学長とのご縁は、浅羽記念公園、近藤記念館の建設からと聞いている。仲介していただいたのは、今回も基壇の設計をしていただいた界SPAD環境建築研究所の藤江通昌所長である。氏は東京藝術大学のご出身で、宮田学長とは知己の間柄である。実はこの事業で最大の難問であったのが、剣の制作を依頼する方であった。
前述の通り、初代活人剣の制作者は、明治を代表する彫刻家の高村光雲である。ところがこの光雲は、今の東京藝術大学の前身、東京美術学校に勤務しており、ここで帝室技藝員として働いていた。宮田学長は、このようなご縁を感じられ、制作にあたられることをご決断いただいたのかと思う。

(6)再建が適って

 今年はちょうど日清戦争終結120年、太平洋戦争終結70年の節目の年である。国中で平和に関する議論が巻き起こり、今も続いている。激動の世界史の中で翻弄され、もがき歩んだ日本の近代史、この中で数えきれない多くの人が負傷し、命を落とした。そして、その膨大な犠牲の上に、今日の日本の平和と繁栄がある。
可睡齋には、大正3年(1915年)、日置齋主がサンフランシスコにて開催された万国仏教徒世界大会に出席した際、揮毫した半切が残されている。そこで、「世界平和、目出度い、ヽ」と筆を執っている。第1次世界大戦の渦中の出来事である。
その日置齋主も、5年後の大正9年(1920年)に亡くなり、佐藤進もその翌年に亡くなっている。果たして、活人剣にかけた人達の願いは、その後の歴史の中で活かされたのであろうか。
今年は、改めて平和の意味を確かめようとする節目の年、もしかしたら活人剣を建立した先人達が、このまま歴史の彼方に葬り去ることを良しとせず、再建を迫ったのかもしれない。
 新しい活人剣の台座には、こんな言葉を刻んで再建することの意義を伝えた。
「・・激動の明治期を生きた先人達に思いを馳せ、由緒ある歴史遺産を次代に継承するとともに日中友好さらには世界平和を願い、新たな活人剣を再建した。平成27年(2015)9月吉日 可睡齋活人剣再建委員会」
この再建された活人剣が、再び壊され、失われる時代が来ることがないよう切に願う。「文芸袋井」2015年10月号に寄稿