可睡斎「活人剣」 日清戦争の歴史秘話を伝える

講和交渉を支えた佐藤進と李鴻章

 静岡県袋井市にある曹洞宗の名刹・可睡斎には、1900年(明治33年)、第48世可睡齋主・日置黙仙によって建てられた「活人剣(かつにんけん)」といわれる石碑がある。場所は境内の奥、秋葉総本殿から奥の院に向かう「六ノ字穴」の近くである。この石碑には建立当時、帝室技芸員・高村光雲が制作した剣が付けられ、全高約6mの高さがあった。しかし剣は太平洋戦争時の金属類供出令により供出され、今は石の台座のみ遺されている。この碑の建立の目的は日清戦争の講和交渉の際、和平実現に貢献した軍医・佐藤進を顕彰し、またこの戦争で亡くなった両国の戦死者を祈念するため建立されたものである。
 明治27年、日清両国は朝鮮半島の領有権をめぐって衝突した。戦況は日本側が優勢に進み、翌年には下関市で講和交渉が始まった。清からは直隷総督・北洋大臣の李鴻章全権大臣が来日し、日本からは伊藤博文首相、陸奥宗光外務大臣が出席。しかしこの交渉が始まって間もなく、予期せぬ事件が発生する。李鴻章が交渉場所の春帆楼から宿舎の引接寺に帰る途中、日本の青年・小山豊太郎に銃撃され、弾丸が顔面に命中するのである。
 小山は、清と講和を結ぶべきではないとして、この凶行を思いたったようである。しかし、この事件は、明治政府を震撼させることになる。もし李鴻章の生命に関わるようなことになれば、世界の同情は清国に集まり、日本は蛮国のそしりを受ける。伊藤博文は、「今度の狙撃事件は実に我が国にとって一師団や二師団の敗軍以上だ。」と語ったという。
 この大事件に明治天皇は勅命を発し、当時名医として名高い佐藤進軍医総監を広島予備病院より引接寺に急行させた。李鴻章は、左目下に銃弾が当たり重傷を負っていた。佐藤進は直ちに治療を開始、やがて氏の適切な治療により李鴻章は一命を取り止めることができた。更にこの治療の最中、二人の間では思わぬ会話が交わされ、不穏な空気が一変する。
 治療にあたった佐藤進は軍医の服装として軍服を着用、腰には剣を下げていた。李鴻章がこれを不思議に思い、「医師に剣は必要か。」と尋ねたという。氏はこの時、「これは人を殺める剣ではない。活人剣である。」と答えたという。中国の仏教書・碧巌録には「殺人刀・活人剣」という言葉がある。これを聞いた李鴻章は驚き、佐藤進と急速に親しくなるのである。
 やがて講和交渉は再開され、両国の和平が実現する。もし李鴻章の問いに佐藤進の当意即妙な答えがなければ交渉は難航し、暗礁に乗り上げたかもしれない。佐藤進がこの答を咄嗟に発することができたのは、禅の大家である西有穆山に師事し、その素養を身に着けていたからといわれる。西有穆山は、碑を建立した日置黙仙の前の可睡斎主であった。可睡齋にこの碑ができたのは、このような縁ということがある。
 剣は供出されてしまったが、遺された台座や副碑には当時の様子を記録する貴重な碑文が刻まれている。
剣があった円柱碑を見ると、修証義を書いた大内青巒の撰文が刻まれている。ここには、活人剣の謂れとなった経緯が刻まれている。
 また副碑を見ると、上段には李鴻章の七言律詩の漢詩「贈日本総医監佐藤」が刻まれている。漢詩の中で李鴻章は佐藤進に対し、名医の尊称「妙手回春」という言葉を贈り、国を救った医師「国手」と賞賛している。
下段には日置黙仙による「旌徳活人剣碑」が刻まれている。日置黙仙はその中で「怨親平等」と言い、日清両国の戦死者を分け隔てなく供養することをうたっている。
 日置黙仙は1847年(弘化4年)鳥取県北條町に生まれる。得度して廃仏毀釈で荒れはてた全国の寺院を再興。可睡齋の齋主のときには、活人剣に続いて日露戦争の慰霊碑である護国塔を建立。大正4年にはサンフランシスコで開かれた世界仏教徒大会に曹洞宗の代表として参加し、世界平和を訴える行動を起こしている。
 佐藤進は1845年(弘化2年)、茨城県常陸太田市の生まれ。佐倉順天堂に学ぶと共に、軍医として活躍。明治になって最初にドイツ・ベルリン大学へ海外留学し、アジア人として初めて医学博士の学位を取得する。事件当時は49歳、軍医の最高位である軍医総監、順天堂大学では第3代堂主に着任、名実ともに国民的信望を集めた名医であった。
 李鴻章は1823年生まれ、安徽省合肥の人。数え25歳にして科挙の試験に合格した俊才である。当時72歳と高齢であったが、清国の実質的な実力者として、内外共にその名は知れ渡っていた。清は西洋列強の侵略と太平天国の乱などの内乱で、まさに内憂外患の時代、李鴻章は中国を近代化させようと洋務運動にも取組んだ。
 下関講和交渉の結果、下関条約が締結され、領土の割譲、賠償金の支払などが明記される。しかしその後もロシア、フランス、ドイツによる三国干渉が続き、更に動乱の時代に入っていく。
 李鴻章は、講和条約締結6年後の1901年に亡くなり、その10年後には孫文による辛亥革命が起こり、翌年清朝は滅亡する。
清末期に世界史の舞台で活躍した李鴻章、日本の近代医学の魁を築いた佐藤進、また仏教徒として世界の平和を祈り続けた日置黙仙、活人剣からは激動の時代を生きた先人たちの息づかいが聞こえてくる。      
                                                    2017.2.27校正 寺田守