浅羽佐喜太郎公紀念碑と潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ 2012.7

 袋井市の南部、遠州灘に近いところに、常林寺という大きくはないが清楚な寺院がある。この寺の門を入って左を見ると、全高3mほどの黒い大きな石碑が見える。これが1918年(大正7年)約100年前に建てられた浅羽佐喜太郎公紀念碑である。
 この紀念碑をここに建てたのは、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)というベトナムの人である。当時ベトナムは、フランスの植民地であり、人々は圧政に苦しんでいた。潘はこの窮状を見かね、ベトナムの独立運動に生涯をささげる。潘は、今でもベトナムでは、多くの人の尊敬を集めている歴史上の著名な人物であり、潘の校名を持つ学校も建てられている。
 当時このような人物が、何故、東浅羽村といわれた田舎の小さな村に来たのか。この訳を知るには、潘が日本で起こした東遊(どんずう)といわれる運動を見てみる必要がある。
 当時、日本は日露戦争に辛勝し、不平等条約を解消して世界の列強と肩を並べるようになっていた。これに刺激されたのが、植民地支配で苦しんでいたアジアの諸国である。潘もその1人で、1905年日本に渡航して明治政府に独立運動への支援を求めた。明治政府が対応したのは、大隈重信や犬養毅などの政府の要人である。潘は独立のために武器援助などを求めた。しかし政府は、ベトナムの独立には人の養成が不可欠であると言って、人材教育を行うよう潘を諭す。
 こうした中で生まれたのが、ベトナムから若者を呼び寄せ、しかるべき独立に備えて人材を育成しようとする東遊運動である。最盛期の1907年には、200人を越える若者が来日し、教育を受けていた。この中には、グエン朝の皇族・クオン・デもいる。
しかし1907年、日本はフランスと、アジアにおける両国の利益と安全を保障するため日仏協約を締結する。これにより東遊運動は解散を余儀なくされ、国外退去の命令が下されるのである。
 困ったのが潘と、氏が呼び寄せたベトナムの若者である。滞在費もない、帰る旅費もない、この時に手を差し伸べたのが浅羽佐喜太郎である。潘は、佐喜太郎が行き倒れになったベトナムの青年を助けたことが縁で知り合いになり、親交があった。佐喜太郎はこの時、1700円という大金を潘に渡し、窮状を救っている。当時の小学校の校長の月給が18円という時代である。潘は、訪日した青年をベトナムに送り返しながら、日仏協約締結の2年後1909年日本を去っている。
 佐喜太郎の父親は、義樹といい、東浅羽村で神主をしていた。しかし戊辰戦争で官軍に加わると、明治政府に仕える軍人となった。佐喜太郎も一緒に上京したが、医者になることを志望し、東京大学の医学部に入学する。卒業してからは、ドイツ留学を希望していたが、体が丈夫でないこともあり、これを断念して環境の良い小田原の地で医院を開院することとなる。
 氏の医者としての評判は良く、校医を委嘱され、必要な折には地元に寄付もして信頼が厚かったという。また、郷里の東浅羽村への思いも少なくなく、洪水に襲われた時には大変心配し、氏の意思を継いだ家族が後から多額の義捐金を送ったりしている。しかし、氏は潘を送った翌年の1910年、享年43歳という若さで亡くなっている。
 一方、国外退去になった潘は、日本を出国してからは、中国、ベトナム、タイなどで身を隠しながら独立運動に奔走する。この時、ベトナム光復会を結成する。そしてこの潜伏活動の最中、佐喜太郎の死を聞くことになる。
 佐喜太郎の死を悲しんだ潘は、日本を出国してから8年目の1917年、危険を冒して日本に密入国する。そして潘は、佐喜太郎の墓前のある旧東浅羽村を訪れ、この地に佐喜太郎の恩に報いる紀念碑を建てようとするのである。
 日本に再入国した当時、潘の手持ちのお金は石碑を建てるのには十分でなかったという。しかし、潘のこの思いを聞いた東浅羽村の村長や地元の人たちは協力を申し出、現在ある立派な石碑が建立されることになる。
 紀念碑には、このような意味の文字が刻まれている。
 「われらは国難のため扶桑(日本)に亡命した。公は我らの志を憐れんで無償で援助して下さった。思うに古今にたぐいなき義侠のお方である。ああ今や公はいない。蒼茫たる天を仰ぎ海をみつめて、われらの気持ちを、どのように、誰に、訴えたらいいのか。ここにその情を石に刻む。
 豪空タリ古今、義ハ中外ヲ蓋ウ。公ハ施スコト天ノ如ク、我ハ受クルコト海ノ如シ。我ガ志イマダ成ラズ、公ハ我ヲ待タズ。悠々タル哉公ノ心ハ、ソレ億万年。 
 大正七年三月 越南光復会同人 」 (立教大学教授 後藤均平氏 訳)

 ベトナムは、当時は漢字を使っており、潘も日本での会話は筆談で伝えたという。特に潘は、儒士の家系に生まれ、科挙の試験を目指す将来を嘱望されたエリートでもある。このような情感溢れる表現も、氏の豊かな漢詩の素養の中から出てきたものと思われる。
 潘と佐喜太郎、生まれた年は共に1867年の同年、同じ年代の空気を吸い、懸命に時代を生き抜いた人でもある。一方はドイツ留学を諦め開業医を営む佐喜太郎、一方は祖国の独立を掲げて日本に赴いた潘、ここに何らかの心の交流があったと考えても不思議ではない。
 潘の独立運動はその後も困難な歩みを続け、多くの同志が捕らえられ、命を落としたものも少なくない。そして潘も、中国でフランス秘密警察に捕らえられ、ハノイに連行されて公開裁判にかけられる。そして1925年から死を迎える1940年までの15年間、監獄から自宅軟禁に移されたまま、73歳の波乱の生涯を終えるのである。
 この年、日本は中国の蒋介石援助ルートを断つとして、フランス支配下の北部ベトナムに侵攻する。かつて日本に支援を求めた潘、臨終の床にあってこの日本の軍靴をどのように聞いたであろうか。
ベトナムはその後、日本が無条件降伏する1945年、権力の空白期間をついてホーチミンが独立宣言を発し、ベトナム民主共和国を打建て、初代主席に着任する。
 ホーチミンと潘佩珠、この二人には共通点も多い。ホーチミンの生年は1890年生まれ、潘との年齢は33歳の差がある。しかし、二人は共にベトナム中北部のゲアン省に生まれ、儒家の家庭で育った。潘がグエン朝の皇族、クオン・デをもとに王政復古を唱えたのに対し、フランスに留学したホーチミンは共産主義と出会い、共和国を打ち立てる道を歩む。共に二人の活動は、ベトナムの歴史に大きな足跡を残すのである。
 なお、東遊運動の最中に来日し、グエン朝の再興を夢見たクオン・デ候は、ベトナム出国以降、一度も帰国を果たすことなく、1951年、東京にて客死する。
 周知のように、ベトナム民主共和国を打ち立てた後もベトナムの苦難の道は続く。1946年フランスとのインドシナ戦争勃発、1954年ジュネーブ協定、1964年アメリカとのベトナム戦争の本格化、1973年パリ和平協定、1976年ベトナム社会主義共和国樹立・南北統一、と激しい戦乱の歴史を歩み、ドイモイ政策の公式採用を経て今日のベトナムの姿を見る。
 激動の中で生涯を送り、悲願であったベトナムの独立を見ることなく亡くなった潘佩珠、そして運命の出会いのあった義の人・浅羽佐喜太郎、常林寺の紀念碑が語りかけてくるものは少なくない。



写真
:潘佩珠と東浅羽の村民(下段の右から2人目が潘)
下:浅羽佐喜太郎 ファン・ボイ・チャウ